ヴェトナム戦争の語り 07

3 構造と展開

Ⅱ 訣別と遭遇

Ⅴ) 遭遇

『フルメタル・ジャケット』の最終幕を導く契機は、『プラトーン』のそれと同様、ヴェトナム兵によるアンブッシュ(待ち伏せ攻撃)である。すなわち、物語の語り手であるジョーカー軍曹(マシュー・モディーン)の属する部隊が、テト攻勢後の荒れ果てたフエを行軍中に進行方向を誤り、右往左往する間に攻撃を受けるという場面から、衝撃的なクライマックスへの律動が胚胎するのだ。対峙すべき敵の姿は全く見えない。規模もその所在も特定できない敵部隊に対して、ジョーカーたちは圧倒的な火力を手当たり次第に投入するのだが、それにもかかわらず「見えない敵」は、見えないところから、極めて正確に彼らの急所を射抜いてゆく。ジョーカーたちは数名の尊い犠牲の上に、漸く「見えない敵」の所在を突き止め、追い詰める。そして彼らが、衝撃的な敵の正体―――すなわちそれは、たった一人の、若き女性兵士であった―――を知るのは、彼女を仕留めてから後のことであった。瀕死の重傷を負った女性兵士は、ジョーカーに向かって「私を撃って/Shoot me」と繰り返し懇願する。当初は「彼女をこのまま放っておけない」と主張していたジョーカーも、長い葛藤の末遂に彼女の願いを聞き入れ、その撃鉄を打ち下ろすのであった。

ジュリア・クリステヴァによる「間テクスト性【01】」の定義を引くまでもなく、上述のような『フルメタル・ジャケット』のラスト・シーンは、『プラトーン』との関係性の上で比較・検討せざるを得ない。言うまでもなく、両者が「ヴェトナム戦争」という同一のテーマを扱った作品同士であり、且つその公開時期も殆ど重なっているからである。すなわち観る者は、個々のテクスト内に於ける範列【02】的共示【03】のみならず、両テクスト間の連辞的共示からの示唆をも感得せずには居れないのだ。実際、『フルメタル・ジャケット』に対する各メディアの批評も、『プラトーン』との比較考量を前提として為されたものが殆どであった【04】。繰り返しになるが、『プラトーン』に於けるラスト・シーンで示唆されているのは、大約すれば「新しいアメリカ」による「ヴェトナムからの訣別」である。つまり、こうした観点を踏まえながら『フルメタル・ジャケット』の最終幕に考察を加えるならば、同作品が『プラトーン』のそれとはまさに正反対の物語構成からなっていることを明確に把握することが出来るだろう。

 先ず、『プラトーン』に於ける「卑怯な圧倒的多数」が「ヴェトナム」であったのに対して、『フルメタル・ジャケット』のラスト・シーンに於いてその立場を引き受けるのは、紛れもなくアメリカであると言える。なぜならそこに於いては、物的・量的に勝ったアメリカ兵が、その圧倒的に優勢な火力を持って「たった一人の見えない敵」を追い詰め、そして遂にその息の根を止めるからである。またここで、その「見えない敵」が実は「若き女性兵士」であったと言う表象の形式そのものに検討を加えることも重要だ。すなわち、「戦争」と「女性」の関係性を考察する際、それが現実を反映しているかどうかを一旦措くとすれば、「戦争」に於ける「女性」という隠喩が象徴するものは、一般的に「銃後」であり、或いは「前線」に対して脆弱な「非戦闘員」や「自然」である。もちろん、ヴェトナム戦争に於いては、アメリカ側からは戦地の野戦病院へ赴いた従軍看護婦を中心に6000名余りが同戦争を経験したし、結果として9名の戦死者をも出している【05】。また、国内の反戦デモの列に参加した人々に対しても、それが女性であろうと年配の方であろうと関係なく、警官隊の棍棒は容赦なく振り下ろされた。対するヴェトナム側では、言うまでもなく文字通りの総力戦を強いられ、人々は「貧しさを分かち合い【06】」ながら、女性や年端も行かない少年までその手に銃を取った。「前線」を明確化することの出来なかった米軍によって、民衆の生活圏に対する圧倒的な物的破壊が続けられた「ヴェトナム」に於いては、「銃後」と言う概念も殆ど成立し得なかったはずだ。しかしながら、『フルメタル・ジャケット』に於ける「たった一人の女性兵士」が、それでもなお、「銃後」や「民衆・自然」などのメタファーとして把握され得るのは、それが他ならぬ「映画」のなかで、つまり伝統的に「女性」をそのようなものとして表象してきた装置のなかで語られる物語だからである。すなわち、「女性」に関する伝統的な表象の形式に訴えることで、『フルメタル・ジャケット』は(少なくとも結果的には)実際のヴェトナム戦争のイメージを再現し得ていると言えよう。『プラトーン』が実際のヴェトナム戦争の構図を転置し、「圧倒的多数に翻弄される少数」の立場を奪用することで、アメリカを「哀れな犠牲者」の側に位置付ける一方、『フルメタル・ジャケット』に於いて猛火を浴びせられているのは、少なくとも「アメリカ」ではなかったのである。

 こうしてそのクライマックスを迎える『フルメタル・ジャケット』であるが、『プラトーン』との比較上、最後にもう一点だけ触れておかねばならない点がある。それは、「アメリカ」にとっての「ヴェトナム」を最終的にどう位置付けるか、という問題関心に関わるものであり、結論を急ぐなら、「GIが瀕死の重傷者に止めを刺す」という両者の似たような最終場面が、それが示唆する意味性に於いて決定的に相違するということである。具体的には、ジョーカーが女性兵士の願いを聞き入れ、最終的にその撃鉄を打ち下ろす際に、彼が「彼女をこのまま放って置けない」と発言する場面である。すなわちジョーカーは、死に瀕する彼女を他ならぬ「彼女」と言う代名詞によって認識しているのである。ここに、それまでのヴェトナム戦争映画に於いては、専ら略奪・陵辱の対象、神出鬼没の不気味な兵士という属性があてがわれ、アメリカ兵の銃眼の彼方でバタバタと倒れるのみであった「ヴェトナム人」が、初めてその素顔を見せることになる。彼らの前に横たわる女性兵士は、全く意味の解らない言葉を話し、顔の見えないエイリアンであったという従来のクリシェを脱し、ここに、「見えない敵」たることも「兵士」たることすらも止めた一人の人間として把握されている。今や彼女は、「敵」とか「味方」とか、「ヴェトコン」とか「GI」とか、そういった総ての肩書きや彼我の関係性から自由な、紛れもない「彼女」としてジョーカーの前に横臥するのである。故にジョーカーは、その撃鉄を打ち下ろす際、長く激しい葛藤を強いられることになったのであろう。だって「彼女」は「人」だから。『プラトーン』に於けるクリスがバーンズに銃口を向け、その「ヴェトナムからの訣別」という儀式を執り行なうのに対し、『フルメタル・ジャケット』の最終幕は、ジョーカーに女性兵士を「彼女」と認識させることによって、アメリカに「ヴェトナムとの遭遇」を追体験させる試みであったと言い得るのではないだろうか。

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【01】 「間テクスト性 intertextuality」とは、テクスト間相互関連性とも呼ばれ、ひとつのまとまった単位であるテクスト(本稿に於いては一本の映像作品)と他のテクストとの間にみられる相互の影響関係を意味する。クリステヴァによれば、文学作品は他の文学作品を吸収、変容させながら意味作用を行っているという。この論に従えば、いかなるテクストも他のテクストから何らかの拘束を受けているということになる。〔岩本憲児・武田潔・斎藤綾子編『「新」映画理論集成①』(フィルムアート社,1998)p.295参照〕【02】「範列 paradigme」とは、言語学に於いて、表出された言葉に対し、同系列の表出されなかった言葉を指す。具体化されたものに対する、同系列の具体化されなかったものの関係。映画などでは、作品を構成する要素としての資格がありながら、作者によって選ばれなかった要素群のこと。対して「連辞 syntagme」とは、表出された言葉同士の関係を指し、映画などでは、作品を構成する諸要素として具体化されたものの相互関係を意味する。〔出典:モナコ『映画の教科書』,巻末「映像用語集」〕つまりここでは、『プラトーン』及び『フルメタル・ジャケット』各々のテクスト内における「範列的な共示=内的構造」を取り扱うとともに、「両テクストに跨った比較考量=連辞的」共示に関する検討をもその視野に入れて考察するということを意味する。【03】「共示 connotation」とは、ある表現(言葉・映像・記号)の一義的な意味を超えた暗示・比喩・象徴或いは連想等による意味のことを指す。〔出典:モナコ『映画の教科書』,巻末「映像用語集」〕【04】濱口「ニューヨークにおける『フルメタル・ジャケット』評」,p.106 【05】生井『ジャングル・クルーズにうってつけの日』,p.119 【06】古田元夫による表現。詳しくは以下を参照。〔古田元夫『ベトナムの世界史―中華世界から東南アジア世界へ』(東京大学出版会,1995)pp.170‐181〕

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