ヴェトナム戦争の語り 06

3 構造と展開

Ⅱ 訣別と遭遇

ⅳ) 絶対的な距離

 スタンリー・キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』は、徴兵された若き新兵たちが、次々と丸刈りにされてゆく場面から始まる。彼らはそろって丸坊主にされたあと、先ず数週間の厳しい訓練を受け、兵士としてのエートスを漏れなく身体化した上で、1万マイルの彼方へ飛び立ってゆくのである。丸刈りにされてゆく若者たちの表情は、伏し目がちであったり、今にも泣き出しそうであったりと様々であるが、圧倒的多数を占めるのはその「無表情」である。そして彼らは、ぼんやりとただ一点、すなわち、鏡を通じ丸刈りにされてゆく自分の姿を見つめている。つまり、そうすることによって彼ら新兵は、人を殺すための技術、兵士として当然持つべき信条、アメリカがこの戦争を遂行することの大義、そういった様々な共通の信念体系を徹底的にたたき込まれる以前に、自分たちが先ずその外見から画一化されてゆくことを知るのである。そして、こうした場面と不釣合いなほど牧歌的に流れるのが、デイヴ・ダドレーの歌う『ハロー・ヴェトナム Hello Vietnam』、すなわち強いアメリカの象徴、カントリー・ソングであった。

 『フルメタル・ジャケット』の物語世界は、大別して前半・後半の二部構成からなる。すなわち、サウスカロライナ州パリス・アイランドの合衆国海兵隊新兵訓練基地に於ける新兵訓練場面という前半部と、テト攻勢前後の荒廃した王都フエに於ける苛烈な戦闘場面という後半部とである。その物語世界を構築する上で、こうした「場面転換」というテクニックに決定的な意味性を付与しているヴェトナム戦争映画の例として、マイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』を挙げることが出来るが、ここでは先ず、同映像作品との対比から、『フルメタル・ジャケット』によって再構築された「ヴェトナム」を検討してゆきたい。

 映像作品『ディア・ハンター』は、サイゴン陥落後最も早くあらわれたヴェトナム戦争映画のひとつである。商業的な成功のみならず、アカデミー賞を含む数多くの映画賞を獲得したこの作品に於いては、既述のように、ふたつの明確に区分された領域がその舞台として設定されている。すなわち、北米大陸は東部アパラチア山脈を跨ぐようにして東西に広がるペンシルヴェニア州のとある製鉄町と、その近傍に存在すると思われる山地を含む世界がひとつであり、もうひとつは言うまでもなく戦地としての「ヴェトナム」である。前半部で展開されているのは、出征してゆく青年たちの歓送会、及びそのうちの一人が結婚式を挙げる場面であり、こうした共同体的な儀礼をシンボリックに描出することによって、青年たちの属するコミュニティが彼らにとって如何に愛すべき「故郷」であるかといった印象が、観るものの前に深く刻まれることになる。この場合、当該コミュニティがロシア系移民からなる共同体で、アメリカの建国神話を牽引してきたようなアングロサクソン・プロテスタント的共同体ではないと言うことは、この映像作品を観るアメリカ人にとって、彼らが劇中人物たちに共感し、自らをそこに縫合する際の妨げとはならない。というのも、彼ら劇中人物たちとは、町の中心たる製鉄所で汗みどろになって働き、仕事を終えれば馴染みの酒場で杯を酌み交わす彼らであり、或いは共同体にとっての社交場としても機能するスーパー・マーケットに勤務し、静かに日々を送る彼女たちである。すなわち彼/彼女たちは、「ランボー」のように超人的な能力を有する英雄でもなければ、庶民感覚からかけ離れた大富豪でもない、どこにでも見出せるような「社会の片隅でひっそりと生を営むアメリカ人」であり、だからこそ、そうした彼らの「周辺性」は、総体的な国民共同体としての「アメリカ」を提喩的に表象=代表し得るのである。『ディア・ハンター』の後半部で展開される「ヴェトナム」が、それとの対照に於いて「故郷」及び「故郷への愛着」が構成されるような「狂気の世界」として描かれていること【01】をも合わせて考慮すれば、「ロシア系移民の共同体」は、要するに、そこに描出された「庶民性/周辺性」をその重要な拠りどころとして、アメリカ全体を代表し、且つ彼らアメリカが自らを縫合すべき対象としての資格を主張し得るのである。『ディア・ハンター』に仕掛けられた「二部構成」という物語の展開形式は、だから、ルシアン・ルーレットを強要するヴェトナムの「狂気性」を強く印象付けるための装置として、また、そうした「狂気」とのコントラストに於いて「故郷への愛着感情」を収斂させる場所として、「ロシア系移民の共同体」を作動させる契機に満ちていると言うことが出来よう。そして、同作品のラスト・シーンで唱和される愛国歌『ゴッド・ブレス・アメリカ God Bless America』の旋律とともに、『ディア・ハンター』は、分裂し混迷を極めた国民共同体を再統合する明確な企図をもって、その立場を最終的に定位するのである。

 翻って、『フルメタル・ジャケット』に於ける物語世界は、一貫して観るものを徹底的に突き放す性格を帯びている。同作品の前半部で展開される新兵の訓練場面は、一般的なアメリカ人が安易に近づくことの出来ない「狂気の世界」である。すなわち、「ジョン・ウェインの模造品(イミテーション)」【02】・訓練教官ハートマン(リー・アーミー)によって放たれる圧巻とも言うべきダーティ・ワードの奔流、日常生活に於いては忌避されるような類の性的・差別的発言の数々など、新兵訓練基地の内部は、観るものが容易く自らを縫合することの出来ない圧倒的な狂気性・暴力性に支配された空間として描出されているのである。そして、こうした狂気性を典型的に象徴する挿話として、ある訓練兵の発狂という事象が描かれている。その訓練兵、すなわち何をやらせても全く無能で、周囲の皆に迷惑ばかりかけている「デブ二等兵」(ヴィンセント・ドノフリオ)は、そうであるがために仲間たちから疎んじられるのだが、ある夜遂に集団リンチを受けるに及んで、徐々にその精神に異常を来してゆく。彼の発狂は、その症状が昂進してゆくに従って、彼の「眼つき」の変化によって描出されてゆくことになる。その「眼つき」が、同監督の1980年作品『シャイニング』に於ける発狂したジャック・ニコルソンの眼付きとそっくりになったとき、デブ二等兵はハートマンを自らの銃に装填した EQ \* jc2 \* “Font:MS 明朝” \* hps21 \o\ad(\s\up 10(フル・メタル・ジャケット);完全被甲弾)で射殺し、自らも自殺してしまうのである。こうした一連のシークエンスからは、新兵訓練基地という空間の狂気性・暴力性、そして市民生活からの絶対的な距離が改めて表現されるとともに、デブ二等兵が発狂してゆく過程を描くことで、同作品は「エスカレートする狂気」、すなわち実際のヴェトナム戦争が歩んだ歴程をも暗に示唆するものであったと言うことが出来よう。そして、物語の後半部が、まさに非日常としての戦闘場面であり、ここでも観客たちは、その日常生活から精神的・物理的距離によって隔絶された物語世界のなかに置かれるであろうという観点に照らすならば、『フルメタル・ジャケット』に於いては、アメリカ人としての観客にとって、彼らの主体を劇中の「何か」に縫合させる余地が徹頭徹尾排除されていることに気付く。ここに於いて、『フルメタル・ジャケット』が再構築した「ヴェトナム」は、『ディア・ハンター』に於いて見られたような「国民共同体」の再統合を反射的に促す装置としての「ヴェトナム」ではなく、アメリカが踏み込んだ「狂気そのもの」として提示されていると言い得るだろう。もちろん、こうした位置付けは、『フルメタル・ジャケット』の物語が他の物語に比べて「ヴェトナム」を描くことにある程度成功しているか否かという問題とは直接的に関係しない。しかし少なくとも、『フルメタル・ジャケット』に於ける「ヴェトナム」は、「国民共同体の再統合・新しい物語の構築」を達成するための「手段」ではなく、正視すべき過ちそのもの、同作品に於けるメイン・モティーフとして提示されていると言える。本章は『フルメタル・ジャケット』を殆ど唯一「許容できる」ヴェトナム戦争映画として結論しようと試みるものであるが、同作品をそのように定位するためには、しかし、もう少しその物語世界を索行する必要がある。だとすれば、続いて我々は、『フルメタル・ジャケット』のラスト・シーンが提示する「ヴェトナム」の意味性を、『プラトーン』に於けるそれとの対比の上に検討・考察しなければならない。

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【01】酒井「共感の共同体と否認された帝国主義的国民主義」,p.121 【02】Susan White, “Male Bonding, Hollywood Orientalism, and the repression of the Feminine in Kubrick’s Full Metal Jacket”, in Anderegg ed., Inventing Vietnam, p.205

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