ヴェトナム戦争の語り 01

1 「ヴェトナム」の在処

それが遂行されていた時点で、ヴェトナム戦争は殆どハリウッドに於ける映像作品のテーマとして取り上げられていない。唯一1968年製作の『グリーン・ベレー Green Beret』だけが、「ヴェトナム」をその不可欠な構成要素とする映像作品として製作されたのみである。ジョン・ウェイン自らメガホンを執ったこの作品は、実際のヴェトナム戦争で余暇プログラムとして上映されていたという逸話【01】に明らかなように、残虐な共産主義者を打倒するため、大勢の兵士たちを率いて戦う勇敢な軍曹の活躍ぶりを描くという、アメリカのヴェトナム介入を全面的に称揚したものであり、ヴェトナム戦争を表象することに「失敗しているという教訓を除けば、全く論外」【02】な作品でしかなかった。こうした状況は他のメディアに於いても似たようなもので、例えばアメリカのTV各局がヴェトナム戦争に関するドキュメンタリーや報道特別番組を実質的に制作し始めるのは、漸く1975年のサイゴン陥落以降になってからであった【03】。ただ、ハリウッドの配給網に乗らないようなインディペンデント・フィルムやドキュメンタリーの類は戦時中からコンスタントに製作されており、その多くはアメリカの軍事介入に批判的なものが多かったという【04】。

こうして、1970年代中葉以前のアメリカに於いては、主要な映像メディアのスクリーン上に「ヴェトナム戦争」そのものを見出す機会は殆ど皆無であった。にもかかわらず、それらスクリーン上から「ヴェトナム」の痕跡が全くその存在を抹消されてしまっていたわけでもなかった。と言うのも、大勢の「ヴェトナム戦争帰還兵」たちが、映像メディアによってステレオタイプに表象されていたのである。その語られ方のパターンは、例えば1974年度のTVドラマに描かれた彼らの姿を列挙してみれば直ちに明白となろう。すなわち『コロンボ Colombo』に於ける「プロの殺し屋」、『マニックス Mannix』の「麻薬ディーラーで嗜虐的な殺人者」、『カノン Cannon』に於ける「強請りの芸術家」等々【05】、帰還兵たちは専ら「犯罪者」や「精神異常者」を引き受ける端役(カメオ)として表象されていたのである。いずれの場合に於いても彼らは、「法と秩序」に対する脅威そのものとして描かれ、彼らの「犯罪性」は、彼らがヴェトナムに従軍したが故の属性として設定されていた【06】。帰還兵たちに対するこうした表象の形式は、1970年代後半になると「不遜で、しばしば戦時のフラッシュ・バックに悩まされる変わり者(エクセントリックス)」という方向へ微妙に変化し、その役柄も「警察官、私立探偵」などそれ自体としては比較的「穏やかな」ものがあてがわれてゆくが、それでも彼らの潜在的な狂気性、暴力的な人格設定には殆ど変わりがなかった【07】。マーティン・スコセッシ監督の映像作品『タクシー・ドライヴァー Taxy Driver』は、こうしてステレオタイプ化されたヴェトナム帰還兵を描いたもののなかでも、最も有名なもののひとつであろう。

タクシー・ドライヴァーは徹底的に社会から孤立している。物語は、トラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)が、彼の運転するタクシー、就業後の映画館、そして休日の自室という外界から遮断された空間で呟く独白とともに進行してゆく。友人や仲間といる時でさえ、その意識は自己の内面へと奥深く潜行する。こうした描き方をすることによって、『タクシー・ドライヴァー』は、帰還後の元兵士が悩まされた「孤立」や「自閉」といった戦闘後症候群を、元海兵隊員であるトラヴィスの身体上に逐一具現してゆくのである。実際、帰還兵のストレス症を研究したチャイム・F・シャータンによれば、ヴェトナム帰還後の障害は、大別して〔1〕罪悪感と自己懲罰、〔2〕他人の罪を被らされたという感情、〔3〕見境のない激怒、〔4〕精神の無感動、〔5〕疎外感、〔6〕他人を愛したり信用したり出来なくなること、等に分類されるという【08】。或る女性との破局をその決定的な契機として、トラヴィスはこうしたネガティヴな感情の殆どに苛まれてゆくのだが、その精神状況の悪化を象徴するものとして、物語後半から常用されるのが、彼の「サングラス」―――すなわちコミュニケーションを遮断するための道具としての―――である。最終的にトラヴィスは、3名もの「屑ども」を無差別に惨殺するに至り、こうして「孤立」や「自閉」に加え、「狂気」というヴェトナム帰還兵たちの最も手垢にまみれたイメージを強く印象付けながら、物語は終幕するのである。この段階では、ヴェトナム戦争の「狂気性」や「暴力性」は、「ヴェトナム帰還兵」によって提喩【09】的に表象されていたと言い得るであろう。

こうした状況に対し、ハリウッドがその質的な方向転換を図り始めるのは1970年代も終わりに近づいた頃である。すなわち、アメリカのスクリーン上に「ヴェトナム戦争」そのものを描いた作品があらわれ始めたのだ。1978年の『帰郷 Coming Home』や『ディア・ハンター The Deer Hunter』、及び翌1979年に製作された『地獄の黙示録 Apocalypse Now』など、この時期には初期の代表的な「ヴェトナム戦争映画」が続けて登場することになった【10】。そして、これら「ヴェトナム戦争映画」と一括りにしてしまうには余りにもその物語内容に隔たりを持つ三作品は、しかしながら、「ヴェトナム帰還兵」或いは(『地獄の黙示録』に於ける)「アメリカ兵」を、必ずしも「精神分裂的な殺人者として表象していない」という点で一致している。戦場に於ける負傷によって身体の自由を奪われ、自暴自棄になっていた『帰郷』のルーク(ジョン・ヴォイト)は、サリー(ジェーン・フォンダ)との愛によって最終的にその絶望の淵から立ち直ったのだし、『ディア・ハンター』に於いて唯一無事に帰還するマイケル(ロバート・デ・ニーロ)は、精神を病みヴェトナムでルシアン・ルーレットを続けるニック(クリストファー・ウォーケン)を救出に向かう。帰還兵或いは従軍兵を「常識的な人物」として、更には「英雄的な」それとして描くこうした傾向は、CIAの秘密工作に従事するウィラード大尉(マーティン・シーン)が、戦場で狂気に陥ったカーツ大佐(マーロン・ブランド)を抹殺すべくカンボジアへ赴くという『地獄の黙示録』に於いても繰り返される。ウィラード自身、ヴェトナムのジャングルに郷愁を覚える屈折した感情の持ち主であり、「賢明で傑出し、機知に富み、人類愛に燃え」ていたかつての「アメリカを代表する将校」カーツと、彼の構築する狂気の世界に次第に惹かれてゆくのであるが、生来的には軍の職務に忠実で、ローリング・ストーンズの『サティスファクション (I can’t get no) Satisfaction』に熱狂する部下を軽蔑するなど、勃興するカウンター・カルチャーを解しない、言わば「正統的」な軍人として描かれている。むしろ、ワグナーの『ヴァルキューレの騎行』に乗せてナパーム弾を投下する空挺騎士団の連中や、「サーフィン用の区域を確保するために」ヴェトナムの一村落を徹底的に破壊する上司の行動を「狂気」と断じるだけの「常識」は持ち合わせているし、少なくとも彼の行動には「軍上層部からの特命」という物語構成上の「正統性」が付与されている。そして彼は、カーツの世界に惹かれつつも、最終的にはカーツを葬り、辛うじて「 こちらの世界(ザ・ワールド)」に踏み止まるのである。こうして、最早「狂気の(元)兵士」は「回復され、或いは抹殺されるべき対象」となり、反対に戦場に於いても正気を保ち、それぞれのコンテクストに於いて「英雄的」なヴェトナム従軍兵が物語の中心的な位置を占めることになる。そして、このような彼らの「英雄性」は、かのジョン・ランボーの大活躍によって極端なまでに追求されてゆくことになる。今や帰還兵は、「彼の正しい位置へと回帰し、そこで彼はアメリカが失ったものを求めてジャングルを駆け回る」【11】のであった。

1970年代後半に登場した上記の三作品(『帰郷』『ディア・ハンター』『地獄の黙示録』)を「ヴェトナム戦争映画第一世代」とするならば、『ランボー』シリーズは、続く「ヴェトナム戦争映画第二世代」への過渡的な作品群として理解し得る。と言うのも、同シリーズは、第一世代で提示された「英雄性」という帰還兵イメージを継承・発展させつつも、第二世代に於いて公式化される「新たな帰還兵イメージ」をも同時に内包しているからである。こうした傾向は、ヴェトナムに拘留された戦争捕虜(POW)を救出すべく、ヴェトナム帰りの超人的な元特殊部隊員ジョン・ランボー(シルヴェスター・スタローン)が同国に単独潜入し、これを成功裡に達成するというシリーズ第二作『ランボー 怒りの脱出』に於いてとりわけ顕著である。すなわち同作品は、「第一世代」で定着しつつあったその「英雄性」を大々的に発展させつつ、続く「第二世代」へと引き継がれる「犠牲者」としての帰還兵イメージをもまた、物語に於ける重要な構成要素として設定しているのである。

殆ど人工的とも言い得るランボーの健全な身体裸像、均整の取れた調和的肉体は、言うまでもなく「技術・国力・大義」総てに於いて「正しい」アメリカの姿、そして取りも直さず「強いアメリカ」の視覚的イメージである。対して、未だヴェトナムに囚われたPOWたち―――衰弱し痩せこけて、一様に無気力な―――によって体現されるのは、かつてのヴェトナム戦争によって傷つき、打ちのめされたアメリカの姿であろう。『ランボー』の単純明快なストーリーに於いて主張されるのは、すなわち、屈強で強靭な彼の「英雄性」によって救出されるべき「傷ついたアメリカ」であり、そして「アメリカの現在」が回復せねばならないものとしての、自信に満ち溢れたランボーの身体なのである。「昨晩『ランボー』を観て、私が次に取り掛からなければならないことに気付かされたよ【12】」というレーガンの弁は、英雄譚としての『ランボー』が持つ意味性を如実に物語るものであろう。

他方で、ランボーは犠牲者でもあった。救出作戦の最高責任者によって欺かれた結果、「不必要な」流血を強いられたのである(言うまでもなく、ここで「不必要」と描かれるのは、彼と互いに愛し合うようになったヴェトナム側カウンターパートの女性の死であり〔でしかなく〕、まさに敵としてのヴェトナム兵の血は「傷ついたアメリカ」を掬い上げるため、必要且つ十分に流されている)。ランボーが、任務終了後に件の最高責任者を追い詰める場面には、国家による裏切りによって、周辺化され、疎外され続けたことに対する帰還兵一般の怒りが代弁されている。しかし物語の「犠牲者」は、それでもなお、最終場面で「国家のために命を捧げる」覚悟を示し、アメリカに対して変わらぬ忠誠心を誓う。そして、そうであるが故に、『ランボー』に於ける「犠牲者」は、同時に「英雄」でもあり得たのである。

こうした『ランボー』シリーズが、しかしながら、その興行的成功にもかかわらず一般的にヴェトナム帰還兵によって「言語道断」と見做されているという事実には注目してよいだろう【13】。このことは恐らく、同シリーズのような余りにも非現実的な娯楽作によって、彼らの体験した「ヴェトナム」が安易に語られることへの拒絶感を表しているものと思われる。続く「第二世代」のヴェトナム戦争映画が(その成否如何にかかわらず)より「現実的」な戦争の描写へと向かうのも、こうした帰還兵たちのメンタリティをある程度反映させた結果であったと言い得るかも知れない。しかしながら、「第一世代」の物語構成に於いて、全般的に第二義的な要素でしかなかった「犠牲者」という帰還兵イメージは、怒れる『ランボー』によって一層明確に位置付けられることになった。そして、こうした「犠牲者」としての帰還兵イメージは、続く「第二世代」のヴェトナム戦争映画に於いて、その「英雄性」をも凌駕する中心的テーマとして定位してゆくのである。以下では、そうした「第二世代」の中心的な作品であるオリヴァー・ストーン監督『プラトーン』及びスタンリー・キューブリック監督による『フルメタル・ジャケット』について検討を加えてゆきたい。

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【01】デイヴィス『打ち砕かれた夢』,p.107 【02】Rick Berg, “Losing Vietnam: Covering the War in an Age of Technology”, in Dittmar and Michaud, ed., From Hanoi To Hollywood, p.54 【03】言うまでもなく、戦時中に於けるニュース報道は、断片的な「ヴェトナム戦争」を日々「リヴィング・ルームへ」届けていた。ここでバーグが言及しているのは、明らかに「表象」としての性格を有し、ある程度のまとまりを持って製作された「ドキュメンタリー」なり「報道特別番組」である。〔Berg, “Losing Vietnam”, pp.42‐43参照〕 【04】クラインによれば、ヴェトナム介入に批判的なドキュメンタリー・フィルムは、1975年のアメリカ国内で少なくとも164本上映されていたという。〔Klein, “Historical Memory, Film, and the Vietnam Era”, p.36参照〕 【05】Berg, “Losing Vietnam”, p.45 【06】Ibid. 【07】Ibid., p.46 【08】チャイム・F・シャータン「ベトナム復員兵のストレス症―持続する感情障害」;チャールズ・R・フィグレー編『ベトナム戦争神経症―復員米軍のストレスの研究』(辰沼利彦監訳,岩崎学術出版社,1984)p.76 【09】「提喩 synecdoche」とは「部分によって全体を、或いは全体によって部分を表す比喩的表現」を意味する。これに対して「換喩 metonymy」は、「関連付けられた細部や概念によって観念を喚起したり事物を表示したりする比喩的表現」を指す。例えば「王、或いは王権 king」という概念の代わりに「王冠 crown」を用いることなどがこれに当たる。〔ジェイムズ・モナコ『映画の教科書―どのように映画を読むか』(岩本憲児・内山一樹・杉山昭夫・宮本高晴訳,フィルムアート社,1993) pp.127‐144参照〕 【10】これら3作品についての論考に関しては、以下を参照。John Hellmann, “Vietnam and the Hollywood Film: Inversions of AmericanMythology in The Deer Hunter and Apocalypse Now”, in Michael Anderegg, ed., Inventing Vietnam: The War in Film and Television (Temple University Press, Philadelphia, 1991); Frank P. Tomasulo, “The Politics of Ambivalence: Apocalypse Now as Prowar and Antiwar Film”, in Dittmar and Michaud, ed., From Hanoi To Hollywood; Leonard Quart, “The Deer Hunter: The Superman in Vietnam”, in Ibid.; Michael Selig, “Boys will be Men: Oedipal Drama in Coming Home”, in Ibid.; Berg, “Losing Vietnam”, in Ibid., pp.60‐62 【11】Berg, “Losing Vietnam”, p.62 【12】New York Times, July 1, 1985 【13】マーク・リープソン「ベトナム戦争、その後の視線」;『エスクァイア日本版』,vol.15,No.2,2001年2月,pp.44‐48

 

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